最新原稿をお届けします!

> 映画評 > 宇宙人の画家(作品評)

宇宙人の画家(作品評)

この記事は3で読めます。

戦場が当たり前になった僕らの風景 牧野楠葉・小説家





 基本的には保谷聖耀は光と影の作家である。保谷は光と影の調和を再構築しているように、わたしには思える。
 岡崎京子は94年に単行本『リバースエッジ』を出版したが、そこで、サイバーパンク作家であるウィリアム・ギブソンの詩を引いて、主人公たちの住む世界やたしたちの暮らすこの世界を『平坦な戦場』と呼んだ。
 しかしご存じの通り、今もなお、岡崎京子が漫画の中で描いた、日本の衰退、貧富の拡大、殺伐としたSNSでのマウントの取り合いなど、わたしたちの精神性が傷つけられるばかりか、ロシアによるウクライナ侵攻が具体化したように、もう世界は『平坦』ではなく、『リアルな戦場』と化している。そのことを端的に保谷が見抜いているのが、ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』の逃走シーンのオマージュであろう冒頭の車中シーンだ。
そこで流れる『大丈夫、それでも一緒に生きていこう』というラップの空虚さが、もう『リアルな戦場』において、どうしていいのかわからないという絶望感を煽る。そして車は、ガードレールに突っ込み、物語は一気に虚構内世界へと加速してゆく。
 退廃した世界で暮らすジョージ・ワタナベとアイ。そこは「虚無ダルマ」が支配する、裏日本K市である。
 その世界線では、内臓を売り捌く組織とその手下、またロシアと日本のMIXである青年が登場する。しかしそこで興味深いのは、様々な登場人物が出てくるのだが、彼・彼女らには、欲望や葛藤といったものが一切ない。抜け落ちている、という表現が正しいのかもしれない。あくまでも、「虚無ダルマ」の毒波(ラップ)にやられて、そういった『人間的なもの』を奪われ、ただただ、密閉された水槽の中で無意味に揺れるクラゲのように、己の役割や仕事をこなしているのみなのである。これは保谷独自の個性であり、全ての創作者にとって、これからの人物造形について見直す時期が来ているのかもしれない。
 保谷が意図してそうしたのかはわからない。ただ、今の『リアルな戦場』において、本当に己の強い欲望や葛藤など必要なのかと言われると、それは必要ないのかもしれない。身を守るために、自らをそっと自閉的にすることで生き延びる、というサバイブのための振る舞い、ということもできるかもしれない。その意味において、この映画は見事に、全く新しい同時代性を兼ね備えていると言えよう。
 そしてラスト十五分の映像に一体あなたはなにを見出すだろうか。綿密に構築された圧倒的な虚構がスクリーンを覆うさまに、保谷の本気を感じられないというなら、それはあなたの鑑識眼を疑った方がいい。再生や希望を、というなら、自らペンを取れ。カメラを持て。
 保谷の見据える世界像に、あなたも思わず目を見開くことだろう。刮目せよ!